Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

環境リスクからリスク学に入るとゼロリスク信仰になりやすい?

環境科学はそもそも汚染に着目し、汚染を減らす観点から人間への影響ゼロを追求しがちなので。
一方で、土木分野では、豊かな生活の追求が最終目標だから、どこまでなら自然を破壊して大丈夫なのか、という視点に立つことが多い。
両者は出発点から違う。
公害が一大問題だった時期には、汚染を見つけ、減らすというアプローチが大いに意味を持ったが、非常に小さな汚染にはリソースを掛けられなくなった現代。どこまでなら許容するかの方法論が全然成熟していない。
鉛のリスク評価をしていた時に、「じゃあ、どこまでなら鉛を環境に出してよい?」毎日毎日、この問いを考えていた。
スラグ中不純物の鉛、カドミウム、などだれも濃度が分からないし、知ったこっちゃない、そんな廃棄物になるためのものに測定コストを掛けるなどどうかしてる、という現場の対応。まさかの塩対応であったけど、それが潔く心地よく、この人たちも、環境を気にする市民も両方をハッピーにする方法論があるはず!とおもうと前向きに取り組めた。
最先端の太陽光パネル研究開発している皆さまが口をそろえて「鉛を全く含まない太陽光パネル?無理。」と潔く即答してくれたのも、記憶に新しい。そう、こういうものをいかにうまく使っていくか(使わなくするのではなくて)が、試されている。