Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

危険は予測できるか!化学物質の毒性とヒューマンリスク

JV ロドリックス=著、宮本純之=訳、化学同人

この期に及んでもう一度読み返す。20年前読んだ。しかし内容を全然わかってなかった。私はこの20年、何をやっていたのだろうとまたしても落ち込んでしまうが、、、気を取り直して読む。
原題が「CALCULATED RISKS  Understanding the toxicity and human health risks of chemicals in our environment」と欧米の環境科学の教科書にはよくあるもの。ところが、邦訳では「危険は予測できるか!」という言葉になっている(このたび初めて気が付いた)。1990年代前半に「計算されたリスク」なんて言っても、みんな「ハァ?」だったのだろうね。
この本、縦書きなのも驚きポイントで、化学同人はマニアックな本出すけど、縦書きでさらに攻めている印象。しかも、実験室の写真が原版のものじゃなく、日本の実験室のものに差し替えられていたりして、この辺も手が込んでいる。なのに価格2800円+税(安い)。当時、出版業界に余裕があったんだろう、そうとしか思えん。まあ、当時は学生数が多かったし(私もその一人)、他にメディアがなかったから本は情報入手経路の基本で、学生ならとにかく買うものだったからね。。。
そのような背景はあれど、やはりこの本のターゲット読者層は謎だな。出版から2年後に2刷になっている。行政関係者がみんな読んだんだろうか。
この訳本の欠点は、参考文献が付いていないこと、仕方ない、原書も買うか。。。

ずっとずっと疑問に思っていたことが、少しクリアになった。

安全係数の始まりの始まり
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P.318
なんらかの安全係数が人間のADI設定には必要であるとする十分な理由はあるとしても、どの特定の数値を選抜するかには明確な科学的根拠はない。1950年代初頭、FDAの科学者二人ーアーノルド・レーマンとO・ガース・フィッツーーが毒性データをもとに食品添加物における人間の安全摂取量を探索していた。彼らは当時比較的わずかしかなかった人間と実験動物との相対的感受性や人間集団内における感受性の変更に関する知見を精査し、この二つの要素ー人間と実験動物間、人間相互間の感受性の差異ーに対してそれぞれ10倍の安全係数を取れば十分であろうと結論した。このようにして彼らは、食品添加物残留農薬などの慢性的な摂取の続く化学物質では人間のADIをゲッ歯類の慢性毒性におけるNOELの100分の1とすることを提案した。
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↑アーノルド・レーマンとO・ガース・フィッツー(Arnold J. Lehman and O. Garth Fitzhugh)ね。このロジックに、1970年代の宇井純さんが異議を唱えていた(「公害原論(合本)」第II部p.162)んだなー。

RfDってどういう位置づけか
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P.319
このようにして得られた人間の推定しきい値を、EPAはADIという用語の代わりにRfD (toxicity reference dose)ー基準曝露量ーと呼ぶことにしたが、これもEPAによれば非科学的な意味を持つ”許容される”という表現を排除するためである。ただし多くの場合、ADI(これは現在でもFDAやWHOで用いられているが)とRfDとは同じである。
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心しておかなくてはならないこと(ちょっと長いが抜粋)
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P.321
注意すべきことは、ADIはリスクの直接的表現ではないことである。リスクは確率であり、ADIは”非常にリスクの低い”摂取量もしくは投与量であるが、この”非常に低い”の正確な定義はなされていない。もしなんらかの方法で、ADIを下まわる低いしきい値をもつ人びと(潜在的な”リスク”グループ)の集団内の割合が求められれば、ADIに対応したリスクの把握が可能となるであろう。ごくいくつかの物質たとえばオゾン、一酸化炭素、硫黄や窒素の酸化物などのような健康に対する傷害性が容易に観察できるありふれた大気汚染物質を除けば、そうした把握ができるものはない。
ADIに対応したリスクに関する知見の不足や、あるいはADI以上で観察可能量以下の(すなわち安全係数によって収められる)範囲における量-反応関係についてのデータや仮説が欠けている場合には、ADIを超えて被ばくした際のリスクに関しては多くを論じることは不可能になる。リスク査定者は、ADIを超えればリスクは増大するとの定性的な考えを述べることができるにすぎない。たとえば、ADIを大きく超えるほど潜在的なリスクは大きくなり、しきい値を超えてしまった人びとの割合が増大する、というように。心にとどめておいてほしいのは、ADI値は健康を保護するために過大に設定されており、したがってそれよりも相当多い投与量でもリスクとはならないものがあることである。ただ、どのADIがそれに相当するのかを決定するのは決して容易なことではない。

P.328
リスクの判定には、定量的な表現と同時に記述的注釈が含まれることになる。定量的な表現のみが政策決定者にも大衆にも重要視されることが多い。確かに数字は定性的表現よりも扱いやすいが、計算されたリスクがどの程度真のリスクに近いかの判断をおこたってはいけない。前述したような行政的仮定のもとに査定されたリスクと、決して得ることのできない真のリスクとの間のへだたりは化学物質によってさまざまである。化学物質に関して入手できるデータはバラバラで、それらすべてに適用される科学上の仮定の妥当性も同様である。したがって定量的記述とともになされる定性的な記述は、これらの重要な差異を把握したものでなければならないが、残念なことにリスクの査定者たちは自信をもってそれを記述できるまでにはいたっていない。
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P.355
安全とは相対的な条件
特定された状況下で許容されるリスクの度合いに応じて定義されるもの。