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タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

「安全は客観的、安心は主観的」というのは逆ではないのか

冷泉彰彦さん2011年11月30日 ニューズウィーク日本版(こちら

安全が客観的で、安心は主観的というのは逆なのではないでしょうか?

 例えば食品に残留している放射性セシウムについて「1ベクレルでもイヤ」と思っている人は「私は偉い科学者が科学的な根拠に基づいて作った基準では、1ベクレルなら安全だというのは知っているが、自分の直感的な感情論からは安心はできていない」などと思ってはいないのです。ただ、この人の考えとして「1ベクレルでも安全ではない」と思っているわけです。

 つまり、「安全」の方が主観的なのです。というのは、人の数だけ「安全」には種類があるからです。「自然放射線以下なら安全」「いや自然放射線にも色々ある」「太平洋を飛行機で往復する際に浴びる線量と同じだから安全」「いや飛行機で成層圏を飛ぶのも危険」「検出されたストロンチウムは60年代の核実験由来のものだから安全」「いや核実験から出た放射性物質は今でも危険」まあ色いろあるわけですが、科学的なものは「安全」で主観的なものは「安心」という区別はできないのです。どの意見も大真面目で「安全」と「危険」について語っているわけです。

では「安心」というのは何なのでしょう。これは私は「社会的な合意」だと思うのです。危険や安全の感覚には価値観や直感など、主観的な要素が入るわけで、社会的な統一は不可能です。ですが、立場や直感的な判断は異なっても、社会として制度的に必要な規制なり対策が取られているということに広範な合意ができていること、それが「安心」だと言えるように思います。

 例えば、火事を経験して怖い思いをした人などで、旅館では厨房の近くの部屋には泊まらないとか、必ず非常口の点検をするというような人がいます。その一方で旅館やホテルの防火体制にはそんなに敏感でない人もいます。正に「安全」は人それぞれなのですが、では敏感な人は今の消防署の数を倍にせよとか、消防車の数を増やせということを主張していつも政府や自治体とケンカしているかというと、そんなことはないわけです。社会全体として防火体制については、安定的な合意があるわけで、そうした合意が出来ていることが社会全体の火災に対する「安心」になっているわけです。

 放射線の場合は、燃焼現象とは違って目に見えないという問題はあります。また安全に関する直感や価値観に大きな差があって、社会的な合意を形成するのは困難だというのも事実です。ですが、「自分の科学的な理解から導いた基準が安全」であり「科学を知らない世論の感情論が安心」だなどという大衆蔑視、世論軽視の姿勢からは、社会全体の安定的な合意形成は不可能だということは言えるでしょう。