Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

安全と安心

安全と安心は違う,という議論がある.しかし,私は個人レベルで見ると安全と安心は同じリスクレベルにあると思う.
なぜなら,安全とは許容できないリスクがないこと,という定義に照らしてみると,個人にとって許容できないリスクがないと判断することイコール安心をももたらすからである.自分で納得して選択することが最も安心するということなのではないか.
放射線の基準値に関していえば,同じ線量レベルでも安心できる人とできない人がいたのは,個人個人で許容できないリスクレベルが異なっていたからに過ぎない.国から押し付けられた許容基準に納得いかない(「何となく納得いかない」も含む)結果だったのだ.
うちの場合,インド家族旅行を2004年に決行した.結果としてなかなか楽しい思い出深い旅だったが,冷静に考えるとよく実行できたなとも思う.その当時,許容できないリスクがない,と判断したのだろう,と今になって思うしかない.許容できないリスクレベルが対象によって異なること,自発的な行為ではリスクも許容できてしまうこと,をもっとみんな認識するべき.許容できないリスクレベルはどのあたりにあるかを,様々な対象について,個人個人が考えておくことが重要だと思うけど,なかなかできない.
*****
210210追記
インドの例は「許容できないリスクがない」からではないな。旅行を決行したのは、安全ではない(許容できないリスクはある)ものの、ベネフィットがそれを補って有り余るほど大きいと判断したから、とした方がしっくりくる。
いわゆるリスクベネフィット解析を、とっさに行ったのだ。

リスクベネフィット解析については、今流行りのワクチン接種の事例で考えてみる。
・ワクチン接種は、ベネフィットがリスクに比べて【大幅に上回る】場合のみ、受け入れられる気がする。リスクとベネフィットが同じくらいの大きさ、もしくはベネフィットがリスクに比べて多少上回る程度であれば、人は受け入れない(プロスペクト理論)。
・リスクベネフィットコミュニケーションといっても、通常、ベネフィットは人から説明されなくても理解されやすいのではないか。また、説明されなくても容易に受け入れやすいのではないか。だから、リスクの説明に時間が割かれる傾向にある、という仮説。
*****
国家になると,話はまた大きくなって面倒になる.国として安全というレベル,すなわち国として許容できるリスクレベルを決めておく必要があるからだ.これが日本には決定的に欠けている.

また,安全は科学的に決まるが,安心は主観的なものである,という主張を見ることがあるが,安全は必ずしも科学的根拠だけで決まっているわけではないという意味で,このような線引きは間違っていると思う.
ただし,安全は「「安心より」客観性がある」か,と問われたら,「ある」と答えるだろう.安全は自分の直観だけで決まるものではなくて,複数の人間で決めるプロセスを経ていると考えられるからだ.(安全とはどういう状態か(他者とコミュニケーションするために)言語化できていて,そのうえで複数の人間で合意,というステップが,安全を決める際には取られていることから)
*****
安全工学会での2000年代初めの議論は,今となったらかなり先進的であると言わざるを得ない.
秋田一雄は安全は一律に(科学的に)決まらないことを2005年ごろにすでに指摘していた.
秋田一雄「安全・安心という言葉」安全工学 44(2)p.138-9(2005)より抜粋:

安全を追求する行為は,社会の人々が「安全」という価値をどのように選択するかの問題となる.いずれも社会と切り離しては考えられず,その意味では,安全は本質的に社会的な概念であって,科学的に決められる概念ではない.したがって,どこまで安全にするかは,安全に関する科学技術的な情報に基いて,社会の人々が決めることである.具体的な方法には触れないが,求められる安全のレベルが時代や地域によって変わるのもそのためであろう.また,社会に不確実性がある限りいつになっても絶対安全などはあり得ない.筆者が以前から安全を構造と行為の両面から論じ,安全における科学技術の役割は情報の提供が限界であると主張するのもこのためである.