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タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

日米仏の思考表現スタイルを比較する

この記事,めっちゃくちゃ面白い。ベネッセ教育総合研究所のサイト。
http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_01.html
日米仏の思考表現スタイルを比較する ─3か国の言語教育を読み解く─
渡辺雅子[国際日本文化研究センター助教授]
★日本とアメリカの作文教授法の違いについて。

子どもたちが授業で実際に書いた作文を日米で比較してみると、興味深いことが分かります。日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に「綴り方」の伝統に則って、「自由に、思ったままを書けばいいんだよ」と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。その一方で、一見自由な印象を受けるアメリカの小学校では、実は厳しい文章の「型」の訓練と、技術的指導や添削が行われます。その結果として生み出されるのは、各自が書く目的に応じて様式を選び、そこに個別の意見が主張され、ときにはさまざまな様式を組み合わせる多様な作文です。
 ここには、「自由」を重視している方が結果的に「規範」にとらわれ、「規範」を重視している方が結果的に「自由」な多様性を生む、というパラドックスが見られます。型を知らずに「自由に書け」といわれても、いったい「何から」自由になればよいのか分かりません。その結果、「起こったことをありのまま書いて時系列で気持ちの変化をたどる」という書き方が逆説的に唯一の型になってしまうのです。
(中略)
アメリカでは、いくらユニークな意見や面白いアイディアを持っていても、それを他人と共有できる「型」に入れて、つまりコミュニケーションできる形にして提示できなければ、その価値は無に等しいと考えられています。だからこそ、小論文を書くことで「主張」の様式を学び、創作文を書くことで「語り」の様式を学ぶのです。
 日本の「学校作文」は小学校ではその機能を十分に果たしていると思います。しかし、中学や高校になっても、それに代わる書き方の様式が教えられないため、大学へ行っても社会に出ても「子どもの作文」しか書けないのだとしたら、これはたいへん深刻な問題といわざるを得ません。

★で,フランスの授業はというと。

フランスで頻繁に行われる討論の授業を見ると違いは明白です。ディベートのようにいかに相手を論理的に納得させるかというテクニックではなく、帰納法演繹法を組み合わせながらできるだけ大きな全体像を描こうとする「共同体の文化作り」に力が注がれます。

確かに,欧州の人が書く論文と,アメリカ式教育を受けた人が書く論文は,”味わい”が明らかに違う。欧州の人のアイディアは,(一般論でいうと)視点は大局的,しかし規範や枠組み,あり方の議論に終始していて,現実に即しているとはいいがたいんだよな(笑)。この違いの可視化は面白いなぁ。