宇井純=著、亜紀書房
2006年に出た新版。この本にはちょっと思い入れがある。古い版を初めて手にしてから買おうか迷うこと15年、ようやく買った(早く買え!)。
・・・T大工学部某学科の図書室で擦り切れたこの本を見つけ、なぜか堂々と読めず、書棚の隅でこっそりと読んでいた。それほど禁断の香りがする。
でも、いろんな闘争からもう40年以上。冷静に、歴史的資料として見つめなおす価値はある(公害の論争という意味でもそうだし、私も知識いろいろ付いてきて「今なのかな〜」という感じだし)ってんで、今回も迷ったけど買った。買って正解。今読み直す価値はある。不謹慎なようだが、小説のように面白い。
091030読了。この本が書かれてから40年も経とうというのに、デジャブ感に驚愕する。なにがって、環境問題の構図はここにある公害問題の構図とそっくりということに対して、そして、解決すべき問題はこの時代の宇井さんにほぼ指摘されていることに対して。まったく!現代に生きる者として恥ずかしくなる。私はこの数年何をやってきたのだろうかと。
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公害問題の弱者は、声を上げることができない、真実を訴えると村八分
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排出権取引=賄賂、っていう発想は新鮮。
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公害時代の基準値は,「企業をつぶさないように」設定されていた.
現代はどうだろう.健康リスクの観点で基準値を吟味しつつも,他のリスクとのトレードオフを考慮して設定されることが目標になるだろう.他のリスクとは,水道の鉛濃度問題だったら,水道の供給がストップしてしまうこと.食品中の天然物濃度問題だったら,食料の供給がストップしてしまうこと.化学工場だったら,その製品が作れなくなるために海外のライバルに市場を奪われてしまうこと・・・というのもありうる.
基準値は,古くは(今もかもしれないけど)頻度分布図をみてその超過する割合をもとに,エキスパートが絶妙な匙加減で決めているというのが私の理解.そういうふうな決まり方をしている場合,この基準値で「どのくらいのリスクが許容されているか」を定量化しておくことは出来る.たとえ,その基準値が”鉛筆舐め舐め”で決まっているとしても,それによってどのようなことが現時点で起こっているかを定量化する試みはあってもいい.これは,「このくらいで折り合いをつけようや」っていう,エキスパートの感覚を定量化していることに他ならないからである.こういう経験知は落としどころとしてすごく正しかったりするので.
cf.2009-05-27うねやま研究室「(食品に天然に含まれる汚染物質の件で)どこかでこのくらいのリスクなら受け入れようという合意を作る必要」←今までは,こういう合意は専門家の中だけで作られていた.一般市民と作り上げていくものではなかったということだね.
そして,こういう経験知を使わず機械的に決めたゼロリスク基準値を振りかざした結果発生した費用についても,事例を集めてDB化しておくと良いかもしれない.
面白かった記述
「筑波学園都市は非常に住みにくくなるであろう」第I部p.57
「共同体−みんなが仲良く暮していかなければならない一つのまとまりにおいて(中略)庇護と依存という関係があるときには,そこでは理屈でものごとを詰めていくことは大体もめごとの元になるという有名な定式」第I部p.181
「補助金,権利金は賄賂の一種byジュディーというカナダの経済学者」第I部p.269
「(許容量とは)その数値によって得られる社会的な利益と損失とを計りにかけて決めるものですから,もちろん0.5ppm(注:FDAのマグロの水銀許容濃度)なら安全とか危ないとかいうものではないのです」第II部p.47
「『水俣では水銀が魚の中に50ppmくらい入っていた』という報告がある.50ppmで人間が死んだんだったら,まあその10分の1にすればおそらく命には関わらんであろう.さらに10分の1,つまり初めの百分の1にすれば,まあまあ公衆衛生上の一つの許容値になるであろうと甘く考え」第II部p.162(安全率の最も原始的な考え方を初めて見た.1/100では甘いんだ・・・)