『公研』2021年4月号「対話」
1968年生まれ女性研究者が語るジェンダー――フェアで自由な社会の実現にむけて【大庭三枝】【吉原真里】【川上桃子】 | 公 研
かなり面白かった。3人共、常勤で社会的地位も高く何不自由ない研究者が、敢えてジェンダー論を語る、っていう強さ。正論なんだけど嫌味にならないのは言葉の選び方が的確だからだろうか。読みやすいし、「大企業の管理職で女性が増えなければダメ」、「女性がいないことに気付き、ギョッとすることから始める」と、タイトルの付け方もうまい。
「フェミニズムに対しては、なんであんなに高く拳を振り上げて男性に対して戦わなきゃいけないんだと感じていました。」私も全く同じ感覚。そう、だけど敢えて今、動かさなければならないものって、あるんだなーと。
『公研』という情報誌。この度初めてちゃんと読んでみた(WEBだが)。WEDGE(東海道新幹線のグリーン車に乗ると置いてある雑誌)の読者層とほぼ同じ、と直感。つまり女性活躍とかアファーマティブ・アクションとかを嫌いそうなオッサンが主要な読者では?と思ったけど、そんな情報誌にこんな記事があるのも、興味深いっす。
ちなみに、フェミニズムについて、大学時代にはどんなふうに感じていました?
吉原 私にとっては、フェミニズムへの興味が東大受験を決意したことに直接に結びついていたのだけど、いったん入ってしまったら、なんだかその方向性を見失ってしまったような気がする。ボーヴォワールを読んで意識覚醒したくらいだから、知的な意味ではフェミニズムに興味はあったんだけど、体系立って勉強することはなかった。フェミニズムに限らず、勉強する意欲があって大学に入ったのに、何をどう勉強したらいいのかわからなかった。そして、アクションとしても、中高生の時みたいにどこかに文章を書いたり個人として発言したりすることはあっても、人と一緒に何かをしようとか、社会を変えるために運動しようとかいう発想はなかった。周りのせいにするのも良くないけど、そういう文化もなかった。クラスに学生運動をしている人はいたけど、そうした人たちや活動に否定的なステレオタイプを持っていたから、運動に加わろうという考えも浮かばなかったし。
川上 私もフェミニズムについては否定的でした。と言うより、大学でもジェンダー論やフェミニズムについて体系的に学ぶ機会がなかったんですよね。学んでいたら全く違ったのでしょうが、知らないがゆえに、なんだか感情的で怖いというイメージを持っていました。フェミニズムを自分に引き付けたり、ジェンダー問題の広がりを真剣に考えたりするようになったのは、社会に出てから、それもこの10年くらいのことです。大学生の頃は、10年後、20年後の日本は全く違う社会になっているはずだ。自分は、親世代が生きたのとは違う、自由で実力本位の時代を生きていくんだ、と思っていました。
大庭 うん、その感覚はよくわかります。私も大学時代も含めて若い頃は、自分が努力して社会のなかで道を切り拓くことと、フェミニズムを支持することがまったく結びついていなかったんです。フェミニズムに対しては、なんであんなに高く拳を振り上げて男性に対して戦わなきゃいけないんだと感じていました。
吉原 私たちみんながそうやってフェミニズムに否定的だったのはなぜだろうと考えるのは大事だと思うのよね。女性も含めて、世の中の多くの人が、同じような感覚を持っていると思うから。私の場合は、フェミニズムへの興味も一因で東大に入ったのに、皮肉なことに、東大に入ったことでフェミニズムへの興味が後退した部分があったと、今になって思う。と言うのは、東大を受験するためには、やはりそれなりの努力をしなければいけなかった。一生懸命たくさんの科目を勉強して、難しい入試に受かって合格した。つまり、男子と同じ土俵で勝負して、次の土俵に上がることができた、そういう自負が意識的にも無意識的にも生まれて、メリトクラシー(実力主義神話)を信じてしまった部分があった。その神話を受け入れると、女性であることを云々するのはかえって女性のためにならない、女性は与えられた土俵に入り込めるように能力を高めればよいのだ、という考えにつながっていく。当時も今も、東大の女子学生や、いわゆるエリート的な位置にいる女性は、そういうふうに思っている人が多いのではないかと思う。
それから、二人が言うように、フェミニズムとは「高拳振り上げて戦う」もので、「感情的で怖い」というイメージがあって、それがよくないことだと思っていたんだよね。女性が公の場で怒りを顕わにすること、声を上げること、特にそれを集団でやることに対して、ものすごく否定的な目が社会にあって、それを女性である自分も内在化していたのだと思う。そんなふうに戦わなくても、きちんと仕事をして成果を上げれば、それによって世の中が変わっていくはずだと思っていた。
私も若い頃は実績を上げることで道を切り拓く、ということばかり考えていた気がする。そして、この社会は所与のものであって、それを自分が変えるとか、変えようとか思っていなかった。むしろ今ある社会という前提のなかで自分がやりたいことをやって生き残るにはどうすべきなのか。そればかりを考えてきた気がする。旧態依然としたオジサンたちの発言も「人ごと」として特に批判することもしない。でも、こうした発想が行き過ぎると結局、日本社会は保守的なオジサンが現実には力を持っているので、彼らに好かれて出世しようという戦略につながり得るなと思う。