Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

私はフリーライダー?という疚しさ

COVID19の感染拡大は,東日本大震災よりも個人的に堪えた。
1週間に2回新幹線に乗って,関東と東北を規則正しく往復する生活を確立し,自分なりの手ごたえを感じていた私は,生活を見直さざるを得なかった。

私が堪えた原因の一つは,目に見えない形で忍び寄ってくる(または,忍び寄ってくると思わされている)ものへの対応が,いたるところであまりにバラバラだったからだ。まず,情報の洪水。感染拡大地域とほとんど感染者がいない地域のどちらでも感じたことだが,目に見える風景(今まで通り普通に人は生きていて,仕事して生活している)と,ニュースやTwitterなどで仕入れる情報の凄まじいギャップに,目がおかしくなった。加えて,感染拡大地域とほとんど感染者がいない地域を両方見て,リアルを知っていると,何もかもおかしいと感じてしまった。感染拡大地域で何も対策していないように感じた。東京でも普通に電車は動いているし,数は減ったけれど外出する人はまだまだたくさんいる。電車止めなくてほんとにいいの?一方で,ほとんど感染者がいない地域でやりすぎのように感じた。東京から来たらとにかく2週間隔離。感染拡大地域の空気を吸ったからと言って必ず感染するわけじゃないのに,それどころか感染確率は必ず上がるわけじゃないのに。なにこれ?しまいにはどんな対応も「不十分でtoo much」と感じ,どっちなんだ,と頭がバグを起こした。

公のメディアで「失礼な」表現にも心を逆なでされる思いだった。みなさん,人権って言葉ご存知なんでしょうか?テレビに向かって私は叫んでいた。考えてみると感染症って「隔離」という,人権侵害すれすれの措置を伴うんだよね。科学的知識のある専門家(医療者)がゼロイチの線引きで措置を選択するのはわかるし,それは多少失礼でも「お医者さんに言われたらねー」と許容してきた。しかし,COVID19では,「可能性がある」という形で一般の人がみなそういう判断を下している。そこに違和感というか,なにかカチンとくるものがあって,許せないと心から思った。

感染拡大地域とほとんど感染者がいない地域とを行ったりきたりする。その行動自体にも,感染者がいない地域の目は思っていたよりも厳しかったことは,よく指摘されていることと合致する。例の「田舎だからね~」というあれである。私自身に向けられた非難の言葉はわずかだったものの,それで傷ついたことは事実だ。非難の目線も厳しかった。ただ,非難の言葉だけならむしろネタ扱いというか,許容範囲で,ラスボスはもっと別にいた。
最も大きかった原因は,自分の選んだ生き方に対する疑問が湧き上がってきたことだろう。関東と東北を規則正しく往復する生活を見直さざるを得ないと知ったとき,アイデンティティを否定されたような気がした。そもそもこの移動は私には必須のことなのに。もう,家族と会うのをやめるか,仕事を辞めるか。現に,首都圏に単身赴任している人は「県をまたぐ移動は~」という知事の言いつけを忠実に実行し,東北に帰ってきていないという。私はそんなの耐えられない。私は贅沢でわがままなことを言っているのか?

原因は大きく分けてこの3つかな。
正直なもので,体がまずついていかなくなった。次に,だんだん気分がふさぎ,緊急事態宣言が出てひと月たったころには「うつ病って,こうやって始まっていくのかなー」と冷静に自身を観察していた。

解決に向かったのは,Twitterを見るのをやめ,一般に言われている「県をまたぐ移動をしない」を無視することに決めてから。自分は何を大事にして,譲れないものはなにか,を冷静に考えた結果だった。越智先生や磯野真帆先生が発信されていた,人間味あふれる判断やそのもとになる考え方はとても参考になった。
三浦麻子先生も,未知のものへの不安に対処するヒトの心の特徴をわかりやすく解説してくれていた。私はリスク評価を仕事にしているけど,リスクへの対処や心構えなど,何もわかっていなかった。

現在,1週間ずつ交互に職場と自宅で仕事をすることにしている。週末は自宅。(おかげで職場近くのアパートで月に8回くらいしか寝ていない。アパートの管理も大変である。交通費は大幅削減になったけれど,それはアドバンテージとは感じない。今までのリズムがよすぎたから。)

これまでのところ感染していない。この情報は全く安心材料にならないことは百も承知でいうが,無理のない範囲で感染対策をし,首都圏での込み合った飲食店利用は避けるようにしてきた。これ以上何をしろと,というのが本音である。

しかし一方で,私がこの程度の対策で通常通り感染拡大地域との往復を続けられて,かつ感染していないのは,単に行動自粛をきちんとしてくれている多数の人がいるからなのでは,と考えると疚しくなってくる。そう,私は世間に指をさされるフリーライダーなのであると。解決策はない。この疚しさとどう折り合いをつけていくか,それしかない。でも,この生活を変える気はないのも事実。だましだまし行動し続けるしかない。

****この文章を書く前に自分宛てのメールに書いていたメモ****
日本リスク学会でも,新型コロナ特設サイトはどんな役割を果たしたのか?という振り返りシンポジウムを実施してもよいかも。

感染症対策と人権」については深く知りたい。

地方の差別やスティグマについて。どんなことが起こったかルポを残すだけでも良いかも。
人口密度低いから日常生活では最初からソーシャルディスタンスだった。何が問題なの?と納得がいかないまま,集まることを禁止された。どこまでなら大丈夫なの?
小中学校では,運動会を実施。休校も最小限。親の飲み会も時には実施。でも,何かあったらどうするんだ(と言われたらどうするんだ),という考えのもと,どんどん大きな安全率がかかってゆく。気分が疲弊する。元々人がいない地方都市では一人ひとりのやる気しか資源がないのに,それがもぎ取られていくような閉塞感があった。まさにこの気分が経済を止めていた。しかし,地方が変わるチャンスでもある。

****このメモを書く前に参加していた学会(2020年12月)のメモから****
小出重幸さん
ニュースの役割で最も優先順位が高いものは,「大変だ!」と知らせること
次に,ニュースじゃないけど考えるべきことを伝えること。これは後になって発達してきたマスメディアの様式,と高橋真理子さんが言っていた。ワクチン問題などがこれに相当。
メディアの一番頭を使う部分は,「誰に」「何を」つたえるのかということ。きちんとモノを考えたい人向け,そうじゃない人向けの両方ある。3.11の時は,原発の再稼働側と何が何でも反対側にはっきりと分かれ,この中間の考えの人が声を上げられなかった。中間層に届けるメッセージを持たなかった。今回のコロナでは,この点は成功しているような気がする。