Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

ほんとうの「食の安全」を考える ゼロリスクという幻想

畝山智香子=著 DOJIN選書28(化学同人
食品安全情報blogの愛読者として、敬意を表して購入(ただしAmazonで入荷待ちだった)。
ある化学物質が「基準値」を超過して食品中から検出された場合、その国の対応が例示してあって面白かった。英国などの、急性影響があるかもしれないというラインを超えることが確認されて初めて「回収」という措置をとった例。こういう大人な対応、勉強になる〜〜。回収することだけが正義、みたいな日本の雰囲気は良くない、と私も思うなあ。
面白かったのは、「動物実験での発がん性の定義」。「発がん性が見られた=がんで天寿を全うせずに死んだ」、って思いがちだけど、そういうのはむしろ少数派。寿命まで生きたラットを解剖してみて初めて「あ〜腫瘍ができてましたね〜発がん性+(プラス)ね」、こういうのが多いんだと。自分の思い込みに気づかされた。
天然の食品に含まれる物質は(非意図的に含まれる場合は)規制対象となることはないが、意図的に添加する場合は安全上問題ないという評価を得なければいけない、つまり、とたんに厳しい審査をくぐり抜けなければいけなくなる、ということも初めてハッキリ認識した。同じ物質なのにダブルスタンダードだよね。関連して「もしもタマネギが食品添加物だったら」はウケた。
発がん物質の評価は、BMDを求めてMOEを計算するアクリルアミドのようなやり方も増えてくるのかな。まだ直線外挿は過去の手法とは言い切れないと思うけど、過度に安全側に見積もるゆとりがだんだんとなくなるのは必定だろうね。
食品の栄養素表示について。私は詳しければ詳しいほどよい(誠実だ)と思っていたけど、「表示項目が多く複雑になればなるほど消費者は表示を読まなくなり、(中略)表示はできるだけ単純で明確なものがよい、とされているのです(p.126)」だって!知らなかった!
あと、detailでも知識アップデートしなきゃあ、と思わせられることしきり。活性酸素が悪者という酸化仮説も疑問が投げかけられているとは!私も勉強不足だ・・
ということで目から鱗落ちまくりの1冊。ますます畝山智香子さんLOVEです(意味不明)。

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p.41のコラム「レギュラトリーサイエンスとはなにか」について
・科学とは,追試できること(誰がやっても同じ結果が出ること),だと思っていたのだが,畝山さんの記述ではちょっと違う,むしろ逆.
「レギュラトリーサイエンスにとって必要なのは”再現性のある正確なデータが取れること”です.たとえばある実験データを取る技術が,特定の能力のある個人にしかできない職人技だということが科学の世界ではよくあります」,そう,最先端の科学の世界では誰がやっても同じ結果が出るわけではないのです,わかる!!!
私のD論も,すでにそういう領域に達していたかも・・・特にプレパラートの準備とかで手腕の差が出るんだよ!だから,私も「この結果の再現性ってなんなんだろう」「確かに科学かもしれないけど,誰にも追試されずそのまま埋もれてくって・・・」と考えて,ついには「この研究は誰かを幸せにしているのか?」と結構思い悩んでいた.科学の中でも社会に近いほうの土木工学に進んだのに,なんとなく面白くなくなってきて,就職はD論と全く関係なくてもいいかな,と素直に思えたのだ.
レギュラトリーサイエンスは,科学としてはガサガサで粗いかもしれないけど,大きく言えば「社会の公平さ・平等さを保つための」すごく大事な科学なのだ.レギュラトリーサイエンスの毒性評価って,方法的には全く新しくない,論文にもなりにくい.しかし,誰がやっても同じ結果が出る,そしてそれが重要なのだと.わかる!!!
また,微量分析の世界で,検出下限値が世界で一番低い方法を開発しても,それがロバストでないとルーチンの分析手法には採用されないのも同じなのだ.基準値超えた超えないで判断する世界にとって「偶然超えたんです」では判断できないもん.
こういう,資源・資金の限界の中で,いかに科学の知見を公平な意思決定につなげていくか.自分のやりたかったことはこれだ,だから私は今の仕事がすごく好きなのだと,畝山さんの記述を読んで改めて感じることができた.
(111116)
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