Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

眠る男

小栗康平=監督、1995年日本
役所広司、クリスティン・ハキム、安聖基

さ~て、これも観たくて観たくて劇場でかかるのをずっと待っていた。
群馬県が全面出資をしている。しかし、観光ビデオではない、この点が、まだまだ豊かだった日本の自治体の底力を感じさせる。今だったら「なんでこんなの必要なんですか」と言われて仕分けられてしまうだろうな。

山あいにある温泉町の一筋町。ここでは、様々な人たちが様々な暮らしを営んでいる。キヨジとフミの老夫婦の家には、山で事故に遭って以来、意識を失ったまま眠り続けている拓次という男がいた。フミは拓次を病院から引き取り、献身的な介護を続けている。拓次を毎日のように見舞うのは、知的障害を持つ青年・ワタルだった。感受性豊かな彼は、事故に遭った拓次の第一発見者でもあり、人一倍彼のことを心配していた。水車小屋には傳次平という老人がおり、自転車置き場と小さな食堂を経営するオモニに育てられている少年・リュウは、傳次平からいろいろな話を聞くのを楽しみにしている。町では、南アジアの国からやってきた女たちが、“メナム”というスナックで働いていた。そのひとりであるティアは、故国の河で我が子を亡くした過去を持っている。ティアは町の人たちと接するうちに、次第に町の暮らしになじんでいった。拓次の幼友達である電気屋の上村は、最近になって、小さい頃、拓次とよく遊びに行った山の奥にある山家のことを思い出すようになっていた。そこに誰が住んでいて、それが本当にあったのかどうかも定かではなかったが、独り暮らしの老婆・たけから山家が本当にあったことを聞いた上村は、もう一度そこへ行ってみたくなって仕方がなかった。冬が過ぎ、春が訪れ、やがて夏になり季節が巡ると、人々の生活にも少しずつ変化が見えた。寝たきりだった拓次はついに息をひきとってしまい、いんごう爺さんの提案で、“魂呼び”が試みられたが、それも空しい結果に終わった。しかしその後、神社で催された能芝居を観ていたティアが、森の中で死んだはずの拓次と再会する。不思議な体験をした彼女は、何かに導かれるように上村が探す山家へたどり着き、翌日、そこで上村と出会うのだった。ふたりは、涸れていると言われていた井戸に水が涌きでていることを知る。上村はブロッケン現象の起こる山頂で、拓次に人間の命について問いかけるのだった。そのころ町の温泉では、湯が以前に比べて熱くなったことや、最近、南の国の女たちを見かけなくなったことなどが噂されていた。(映画.comより)

正直なところ、ストーリーが良くわからない。上に転記したあらすじどおり。しかし、謎のエネルギーを感じた。河瀨直美の「殯の森」のような感じ。
山から転落して、意識を失った男が布団に寝ている。むろん死んでいるわけではない。母親は清拭を定期的にしている。近所の子どもが寝ている様子を見に来て、眠る男の鼻からハエが出ていくところを目撃したり。生と死の間の何かを描いているのだろうか・・・。私はこの映画のことを全くわかっていない、ということが観終わって感想を記すとよくわかる!!
群馬県でも、相当山奥だ。風景が味わい深い。こんな山村にも、観光列車だろうか、小さな鉄道が通っている。駅の様子に加え、通学途中の高校生が生き生きと描かれていること。農村歌舞伎ならぬ農村能の舞台の様子。文化レベルがむちゃくちゃ高い。
一方で給水塔に上る高校生からみた街並みは渋川市なのか、結構な都会。このコントラストもよい。
しかし、すべてが眠る男の頭の中のようにぼんやり、ほんわりして、夢か現実かが分からないうちに観終わってしまった。