Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

ようやく精神状態が落ち着いたので記録

3.11震災から4週間,今になってふと思う.発生時に山形新幹線に乗っていた私は脱線事故で死んでてもおかしくなかったってこと.緊急停止してから2分後にあの大きな揺れが来たから助かったんだ.

ひと月近く自分的にはプチパニックだったが,ようやく精神状態が落ち着いたので3.11からの記録をまとめておく.もっと大変だった人がたくさんいると思うけど,あくまでも個人の体験談ですから.

3/11
午後2:46 山形に向かう新幹線の中でPCを電源につないで仕事をしていたら,PCがバッテリーモードになった.「接触悪いのかな」これが車内停電のサインで室内灯も消えた.直後にブレーキがかかり始め,すぐに緊急停止.
2:48 新幹線丸ごとユッサユッサ.閉塞感のあるジェットコースター,例えるならTDLのスペースマウンテンに乗ったみたいだった.すぐに車掌さんから冷静な車内放送.「車内停電のため空調を止めております,ご気分のすぐれない方は窓のあく車掌室へお越しください」冷静すぎだよ!
ラジオを持った人が音を大きくしてニュースを聞かせてくれた「・・・大きな地震がありました・・・」「東京の九段会館では屋根が落ち,負傷者が・・・」ふ〜ん.すぐTwitter見てみたけど,論調はやはりその程度.よくある地震かな?と思って,早く運転再開しないか,そればっかり考える.新幹線車内は情弱(苦笑).
私は,最寄り駅まで迎えに来てくれる予定の夫にPCからメールを出した「地震のため新幹線止まっています.何時に運転再開するかもわかりません.米沢で降りたほうがいいか,赤湯で降りたほうがいいかも微妙になってきました.電話は通じないみたいなので,とりあえずメールで連絡します.」
なんと能天気な内容か・・・
それから約2時間後,また夫にメール.「新幹線の中です.小山付近.今日は何時に帰れるかわかりません.」まだ山形に帰る気でいる私.
結局車内には3時間閉じ込めとなり,薄暗くなった6時前に「最寄り駅まで歩いて移動してください」というアナウンス.出た!よくTVで見る線路の上を歩く人,ってやつだ.1km程度というアナウンスだったが,線路に降りるとき保線の係の人に「3kmありますよ」とコソッと言われ苦笑.
小山駅は真っ暗で人が溢れて,でもさしたる混乱はなかった.座る場所がないのでお年寄りはつらそうだった.駅で夜明かしか?とおもったが市内の中学校の避難所に誘導してもらう.荷物の多い人の荷物を持ってあげながら,お喋りしながら頑張って移動.この時点で友人から安否確認の携帯メールが,運良くつながれば入ってくる.短く返信.
そして夜11時に夫に送ったメール:「携帯の電源が無くなりそうなのでPCより.今,小山市内の中学校の体育館に避難しています.元気です.明日帰れたら帰ります.仙台にいく予定だった親切なおばさんと一緒で,食べ物を分けてもらっています.」
明日帰るとかほざいてる私.この直後,地震後初めて夫からのメールが携帯に届く.よかった!無事らしい.
直後に携帯の電源が切れ,停電なので充電できず不安ながらも寝る.PCの方がまだ持ったが,避難所で隣になったお兄さんに使わせてあげた,ネット掲示板に無事を書き込むのだそうで.
避難所は寒いけどパニックもなく.しかし,寒さと余震で2時間しか眠れず.毛布は一人2枚ないと,とてもじゃないが眠れないことがわかった.
3/12
6:00起床.大宮から北のJRが全く動いていないと聞いて初めて事態の深刻さを認識.山形に帰るのは諦めて埼玉県内の実家に行くことにした.避難所で隣になった人たちとタクシーに乗り合って,3時間かけて40km南の大宮へ(トータル18000円,一人4500円,お金持っててよかった).そこからは電車が動いていたので京浜東北で川口,川口からバスで実家最寄り駅の沿線へ.
15:00 実家着.無事に帰還した娘(私)を見て両親が狂喜乱舞・・・実家はマンションで,揺れたが停電も断水もなく,もちろん両親は無事で普段と全く変わらない生活を送っていた.しばらく実家に居候することにする.ここで,震災後初めてTVを見た.津波の映像に絶句・・・・
そして,実家に帰って来れたのも実は結構ラッキーだったのかも.郡山や福島あたりで足止めだったら,関東に帰るか頑張って山形に入るかすごく微妙だったと思うので.なんか,「自分だけ助かっちゃった宙ぶらりん感」でこのころから神経が休まらなくなる.余震の船酔い感もあったかもしれない.
山形はまだまだ停電が続いているらしい.心配になって夫に携帯から電話するがつながらず.当分携帯メールを送り続けることになりそうだ.携帯メールも送信できる時とできない時があるので不安定だ.
3/13-
目下の懸案は,来週のバンコク出張の準備が終っていないことだが,発表資料が職場に行かないと作れないものもあり,全く仕事が手につかない.子どもたちとも早く会いたいので山形に行ける交通手段を検索したりして,中途半端な時間を過ごす.TVを見ると余計ダメージが拡大するのに,何故か見ずにはいられない.
職場は,3/14-16が自宅待機期間となり,出勤は免除された.山形とはようやく携帯で普通に連絡が取れるようになった.夫からは,このチャンスに花粉症の薬をもらいに医者に行きなさいと言われる.いつも自分のことが後回しなので,この際行っておくか.
この続きは日記(こちら)に書いたとおり.何とか自分を奮い立たせて仕事を終わらせ,バンコクに出発.
3/23-
バンコクで日本のニュースを見ると,放射能が検出された食品がどうこうだの,すでに津波の被害とかと直接関係ない話題で騒いでる.なんだかな〜.このへんからTwitterがウザくなってきた.本当は自分の仕事と関係するからリアルタイムでニュースを追わないといけないのに,まだまだ現実に立ち向かう気概が戻ってこない.研究者として失格かも,とちょっと落ち込むが,目先の仕事(英語プレゼン)頑張ろう.
3/26
バンコクからの飛行機が早朝に羽田に着いてすぐ東京駅へ,東京から上越新幹線に乗り,新潟経由で山形(長井)へ向かう.待ちに待った3週間ぶりの我が家だ.
新潟からは特急いなほ号秋田行に乗ったが,なんと指定席が満席.そして坂町からは米坂線に乗ったが,なんと3両編成で全座席に人が.この路線にこんなに人があふれるのはおそらく最初で最後だろう.それとなく周りの人に話を聞いてみて,新潟からこの経路で山形に出て,山形から仙台に行く人が多いことを知る.
米坂線廃線にしなくてよかったなあ(半分冗談ですけど).
米坂線は,味のある路線だ.特に新緑と紅葉の季節は風光明媚なことで有名で,私が乗ったのは雪解け期でこれまたいい感じなはず.しかし,何せ周りのお客さんがマナジリ上げてるか落胆気味かで私も観光気分にはならなかった.そりゃそうだ,仙台に”戦い”に行くんだもんね.
私は独り身の気楽さもあって,道中おせっかい焼きに終始した.新潟から一緒になった赤ちゃん(5ヶ月)連れ女性の荷物を持ってあげ,とりとめのない話をしたりして.その女性は仙台で被災して新潟に避難していたのだけれど,旦那さんは仙台にいて家族がバラバラなのも逆に不安なので,そろそろ帰ろうか,というところ.荷物が紙おむつ1パックまるまる,ペットボトルの水2L×2など普通の観光旅行とはテンションがちょっと違うのが胸痛む.私はあっさり家族と会えたけど,その方は無事旦那さんと落ち合えただろうか.
さて,私も帰宅.子どもたちは私の顔を見て,狂喜乱舞というほどでもなくあっさりだった.でも皆元気そうだった.2歳2ヶ月の次女が3週間見ないうちに明瞭にしゃべるようになっていて,マシンガントーク状態で面白かった.
3/28-
今度は長女と長男を連れて新潟〜東京旅行に出発.うちの子たちは親の職業柄,泊まりがけの旅行など普段からなかなか出かけられない上に,この度の震災でガソリン使用自粛だったりで近所にも出かけられずにいた.退屈な日々を過ごしていた二人に春休み旅行のプレゼントである.
私の仕事だが,ドサクサにまぎれて休暇・・・・(いいのか,こんなので?)
私の両親が関東から上越新幹線で新潟にやってきて合流し,新潟県内の親戚めぐりをするプランにした.親戚とは両親の実家のことで(両方とも都合よく新潟),うちの子達にとっては大叔父・大叔母にあたる方に挨拶をした.産まれてから一度も顔を見せたことがないので良いチャンスだった.新潟経由でないと山形から東京に行けない今でなくては実現しない企画だった.子どもたちは私が小さいころさんざん入り浸っった母の実家や父の実家でくつろいでいて,しかも昔の私と今の長男の顔がものすごく似ているので変なデジャブ感がありorz.今度は次女も連れてきてと言われる.ええ,ぜひ連れてきますとも.
在来線の接続が悪く時間も限られているので上越新幹線乗りまくりのリッチな旅だった.やっぱ親がかりって身もお財布も楽ね〜オホホホ.
うちの子どもたちはホテル暮らしが好きで,しかも私やじーじばーばと一緒,という夢のような生活が続いて大の浮かれポンチ.新潟県内で2泊したあとは両親と別れ二人を連れて東京の京葉線沿いのホテルで1泊.
翌日は豊洲キッザニアという,子供専用の職業体験テーマパークへ.震災が起きてから予約したにもかかわらず,運良く空きがあった(震災でキャンセルが出たのかもしれない).
キッザニアは長女に存在を教えてもらったが,いまや首都圏の小学生には大人気のスポットなのだそう.ディズニーランドが休園中ということで,そのあおりか激混みだったが,うちの8歳児と5歳児は眼の色を変えて楽しんでいた(親は,ただ疲れた).写真もいっぱい撮りまくって,いい思い出になりました.翌日山形に帰って,我が家の春休みはこれでおしまい.
だんだん震災色が薄らいできた私.子どもたちと一緒に遊び倒すと私にもセラピーになったみたい.ぼちぼち通常モードの4月.