Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

夏休み旅行(新潟)

私の父の実家は長岡,母の実家は燕.どちらも新潟県なので一気に訪問してきた.
夫,次女,義母は初の訪問となった.山形からの車移動は大変便利で,長井から小国を抜け,新潟の村上から燕までは高速.所要時間2時間半弱,近い!!!
しかし,山形県新潟県では道路のスペックがぜんぜん違ったことは衝撃的だった.小国ではトラックと触れ合わんばかりにすれ違っていたのに,新潟に入ったら,道はドドーンとまっすぐ,しかも道幅1.5倍.一気に運転しやすくなった.単に,山形は山ばかりだから道が狭くて,新潟は平地ばかりだから道が広いだけなのかもしれないけど.

夫が海水浴に子どもたちを連れて行きたいというので,私は小さいころ何回か通った寺泊の海を提案した.次女は初の海水浴.子どもたち二人,根性ないので泳いだのは1時間ほど.しかし,海の家で食べた魚はめっちゃ美味しかった.その次,出雲崎まで足を伸ばして良寛記念館に.とにかく暑いが,地元の酪農組合が「良寛牛乳」というブランドで牛乳を出している謎さに,暑さを少し忘れる.

宿泊は燕三条駅前で,そこで私の両親と合流.ホテル住まい大好きな子どもたちのハイライトは当然ココorz.

翌日は,私の家族と両親,総勢7人で,まず燕の母の実家へ.今まで聞いたことのなかった先祖の話を聞く.母の実家は建築設計事務所,隣にある分家は材木屋を営んでいた.昭和20年代は,ソ連からの材木を輸入して加工して大儲けだったとか.そんな話をしてくれた大叔母は,91歳でまだまだ元気.燕の商店街は私が小さいころとは大違いで寂れまくっていた.いつも,大阪や広島から鉄道で新潟に帰っていたので,お世話になりまくっていた燕駅も懐かしさから見に行ったけど,寂しいの一言であった.叔父やその奥さんは建築の仕事はないみたいだけど(涙),質素な生活をしてるから大丈夫と言っていて,とても元気だった.次女を見て,小さいころの私そっくり,という叔父(母の弟).私は苦笑するしかない.

午後は7人で長岡に移動.今回,一番のイベントは長岡の花火大会で,それに参加するために行った.家を継いでいる叔父(こっちは父の弟)が升席4つ(24人分)を確保したところ一族郎党が集結してしまった,というのが真相で,父のきょうだい5人のうち4人が集結,私のいとこが4人.いとこの子どもの赤ちゃんとか,いとこの旦那さんのご両親とかまでいらっしゃって総勢22人,収拾がつかなすぎて笑えた.花火会場に移動するまでの間,スイカなどいただきながら話に花が咲く.ここでも先祖,特に,亡くなった祖父の思い出話を聞いた.祖父は自営業(瓦屋)で,商売っ気がないために家はいつも貧乏だった.そのうえ凝り性で趣味人だったので,家を自分でコツコツ建てていて,隠し屋根裏部屋を作ったりしてたのは知っていたけど,その他にも銅板を加工して石膏の型を作り,石灯籠もどきを何個も作っては人にプレゼントしていたとか.変人すぎ.
花火は,行きも帰りも大混雑&暑くて大変だったが,その不快感を補って余りある大迫力だった.こんな花火は生まれて初めて見た.戦後70年記念大会だったので,例年より豪華だったらしい,「超大型スターマイン」とか案内で連呼されると,何が超大型なのかわからなくなってきたし「十号60連発」とか,もうねぇ.この花火大会は長岡大空襲の慰霊で戦後すぐ始まったとのこと.父は空襲の時は4歳で,大人に手を引かれて逃げたこと,空が赤く燃えたことを覚えているそう.実は,父の母はこのとき既に亡くなっており,父の父は招集されてインドネシアのバリクパパンにいた.面倒を見る大人がいなかったので,父は2歳上の姉(私から見ると伯母)と二人で親戚中をたらい回しだったそうな.父はそういう肝心なことを一切語らないんだよなあ(この話は伯母から聞いた).昭和21年に戦地から祖父が帰ってきて,後妻さんを娶り,ようやく落ち着きを取り戻したという.だから,長岡の花火は父にとっても感慨深いものがあるんじゃないかな.
翌日,私だけは新幹線で出勤,家族は山形へ.車はやっぱ便利だなあ,新潟は近いなあ,先祖は大事にしないとなあ,長岡の花火は日本一というだけのことはあるなあ,とか非日常感たっぷりの旅だった.