Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

赤ヘル1975

重松清=著、講談社文庫

1980年から84年にかけて広島市で過ごした身には、大変身に染みるものであった。広島弁がただただ懐かしく、1ページごとに肯首しながら読んでしまった。中一男子3人の物語で、ひたすらカープの話、バックには原爆。淡い初恋など全く出てこないところが凄い。
平和教育(原爆許すまじ)とカープ愛がこれでもかと描かれ、どちらもウザいくらいの威圧感(褒めてます)。一見全く関係ないようで、両者が密接に結びついているところが、これまた面白い。これは、広島に住むと腹の底から実感できる。
****
私は、小学校1年に上がるときに大阪府枚方市から広島市に引っ越したのだが、広島の生活は物凄いカルチャーショックだった。
まずカープネタ。
・野球に全く興味のなかった母が、カープが勝つと翌日近所のスーパーが安売りをすることから、プロ野球の試合結果を気にするようになった。
・絵日記にカープのことを描くと、とくに勝ったときのことを描くと、どんな内容でも花丸がもらえた。
・皆、とくに男子がバリバリの広島弁を喋っていて、一人称「ワシ」。こんな一人称を使う子どもが本当にいたのか、が第一の感想だったように記憶している。
・しかも、男子は学校の話題の8割がカープネタ。「山コウ(山本浩二のこと)打ちぉったのぅ!」「おお、すごかったのぅ!」という会話を聞いて、小1の私は恐れおののいたもんね。
私は、広島県営プールで毎週日曜日に水泳を習っていた。県営プールは広島市民球場の隣の敷地にあって、というか正確にいうと帰りに広島そごうが入っているバスセンターまで歩いていく途中に市民球場があって、父が暇な時、月に1回から2回くらいか、水泳帰りにデーゲームを兄と三人で見たことを思い出す。行きは兄と二人でバスに乗り水泳教室、終わりごろに父に迎えに来てもらって、という流れだ。巨人戦は全然入れないから、大抵は中日戦かヤクルト戦。外野席は大人700円、小学生は200円だったと記憶している。
夏休みは、日記に書くことがないから(当時の広島は田舎で、夏休みは学校のプール解放しかやることがない)、母にねだってナイトゲームに連れて行ってもらったこともあった。母は疲れているので、外野席(ベンチ)にゴロンと寝転んでいたことを思い出す。
広島に5年もいると、プロ野球は相当詳しくなる。週刊ベースボール社の出している、プロ野球選手のデータブック(プロ野球年鑑)を愛読するようになり、主要な選手の打率や防御率を暗記していたほどだ(ほかにやることがなかったんですね・・・)。
特に好きだったのは、北別府学⑳、高橋慶彦②。今思えば、イケメンばかり見てたんだ(苦笑)。あと、津田恒美もかっこよかった、早逝してしまったが。
江夏を生で観た記憶はないが、山本浩二衣笠祥雄はいつもいつも出ていた。ホームランを打った後、次の回になってセンターの守備につく山本浩二は、外野席の割れんばかりの声援を受けて輝いていたことをよく覚えている。
一方で、平和のための取り組みがすさまじく、重要事項の暗記に次ぐ暗記と強制的なイベント参加のコンボ。
小学校の校歌のみならず、広島市歌、「原爆ゆるすまじ」、「戦争を知らない子供たち」などやたら濃い歌を暗記させられること。原爆投下からしばらくして降った黒い雨のことや、幟町(のぼりまち、ではなくて、のぼりちょう)小学校の佐々木禎子さんの折り鶴のエピソードは丸ごと暗記。学習発表会でシュプレヒコール並みに繰り広げられる呼びかけ「いっぱつのばくだんで、二十万人以上の人がなくなりました」だって、今でもはっきり覚えている。
毎年8月6日は登校日で、ゴミ拾いしながらの登校、8:15の黙とう、体育館で原爆をテーマにした映画を観たこと。5年生では夏休みの宿題が、原爆投下時に広島にいた(近所の)人から聞き取りをすること。