Being on the Road ! in Hatena

タイトルは沢木耕太郎「深夜特急」トルコ編の「禅とは,途上にあること」という台詞から.

14歳の子を持つ親たちへ

内田樹名越康文=著,新潮選書
これも,14歳はあまり関係ない.内田さんと名越さんが話している間に発散して昇華しちゃった感じ.ま,タイトルは別の生き物です.
電車に乗りながらこの本を読んでいたのだけれど,車内アナウンス「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」につづく「車内では通話をお控えください」について考えた.このアナウンスが入るのってほとんど日本だけ.これは何故なんだろうとずっと思っていたのである.
内田さんは,プライバシーの形成され方がヨーロッパと日本では違うと述べている.ヨーロッパでは,プライバシーは物理的に遮蔽された空間にのみ存在するのに対し,日本ではふすま1枚でも保たれる.このことについて日本ではプライバシーって「物理的な壁で作るのではなくて,回りにいる人が作ってあげるもの(p.44)」なんだって!繰り返すが,日本では「見て見ぬふりをすることによって,プライバシーが形成される」,すなわちハードウェアでプライバシーを作るのではなく,人の気遣いというソフトウェアでプライバシーを作るという…何とわかりにくい(笑)!
車内で携帯電話の通話を控えねばならない理由は,「うるさいから」ではない.隣の人が携帯で話していると自分は「聞こえないふり」をしなければならない.それが日本人のプライバシーの保ち方なのだが,【聞こえないふりをしなければならない】という行為を,見ず知らずの人から強制させられるのが不快だから,だ.鉄道会社があのようなアナウンスをするのは,その不快感が蔓延する前にその原因を摘み取っておこう,という(なんとなくの)知恵なのだ.
そういう考え方のないヨーロッパは(いや,世界の殆どの国も),他人と壁で隔てられていない電車内の空間においてそもそもプライバシーは存在しない.だからこういうややこしい気遣いをしていない,というだけだ.
電車内の化粧についても同じだ.化粧をする側が,周囲に「見て見ぬふり」を強制することで,自分は化粧を何不自由なくできる.なぜなら,そうしてもらえば,自分にとってそこはプライベート空間となるからだ(この点において,公共の場で化粧はそもそもありえないことだよ,と叱っても意味が無い.当人は公共の場と思っていないのだから).で,周りは【見ないふりを強制させられている】その不快感でいっぱいになるのだ.それに対しヨーロッパでは,そもそもプライベート空間を車内に作り出すことができる,という技がないから,車内で化粧などありえないのだ.
この点について,内田さん名越さんはさらに,日本人の公共感覚の変化,すなわち「公的,私的というような区別がなくなった」ことについても指摘し,「それなのに日本人的な対人関係の技量はそのまま」「横にいる人を見てみないふりをする技術だけは残っている」としている.このような過渡期の現象が,なんとなく日本人を不機嫌にさせているんだろうなー,と思ったよ.